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「石田荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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石田荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石田荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名丹波国桑田郡のうち建長5年10月21日付の近衛家所領目録の「年貢寄神社仏寺所々」の中に「丹波国石田庄〈以年貢寄進吉田社,本庄浄有法印,新庄医師季康朝臣〉」と見え,年貢を京都の吉田社に寄進した荘園で,当時の領家(預所か)は本荘が浄有法印,新荘が医師の丹波季康であった(近衛家文書/鎌遺7631)下って南北朝期の暦応3年7月22日付官宣旨案にも「丹波国石田庄」と吉田社領として見える(仁和寺文書)室町期になると「吉田家日次記」に当荘のことが散見し,応安4年11月3日条所収の同年10月17日付細川頼之奉書には「丹波国石田本庄内一色名」とあり,丹波守護に命じて,稲岡某の押領を停止し吉田社に還付させている(大日料6-34)また同年11月21日条所収の同日付の忠光書状でも,近衛道嗣は吉田社神主卜部兼の訴えにより,吉田社領当荘の神供米の懈怠を停止させている(同前)応永17年11月17日には石田新荘の下司職が相伝の所領として下毛野調子武遠から嫡子武俊に譲られているこの調子家は近衛家の随身であった下って戦国期には吉田社の神主吉田兼見の日記「兼見卿記」天正5年9月16日条に吉田社領に関する丹波の曽我部隠岐守の書状に「桑田郡之内〈余部郷石田庄,卅石許,犬飼村時安名,十五石許,代五百疋〉」とある荘域は亀岡市余部町あたり... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石田荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名越前国丹生北郡のうち鯖江市石田上町・石田中町・石田下町一帯に比定される嘉応元年11月日の権大僧都某解に,大蔵荘の境界の1つとして「北限石田庄堺」と見え,当荘の南は大蔵荘と堺を接していた(東大寺文書)鎌倉初期と推定される年未詳7月4日の源頼家書状案(仁和寺文書)によると,当荘は仁和寺領で,源平内乱期には藤原友実が地頭に補任されている当荘は康治2年10月14日仁和寺で舎利会を行うにあたり藤原教長が寄進したものという(仁和寺御伝/群書5)室町期は東寺領で,康正~長禄年間頃は越前守護代甲斐氏の一族甲斐教久が代官であったが,未進を重ね,長禄元年の未進は40貫文にも及んだ(京府東寺百合文書ユ・ヒ)文明12年10月竜生寺領総目録写(大野領寺社記并雑記)に当荘の「為長名之内抜地」「国延名之内抜地」「末安名六分壱」などが見え,佐々生(朝日町)の竜生寺の寺領があったまた,当地の西光寺(現在は鯖江市杉本町)は有力な真宗寺院であった(石山本願寺日記天文5年2月27日条など)文禄3年12月5日西光寺蔵親鸞絵像裏書に「越前国丹生北郡石田之荘上村」と見え,これまでに上村・下村が成立していたことがうかがえる慶長国絵図には石田村と見え,高2,380石4斗1升3合... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石田荘(中世) 南北朝期~戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」